Nier escaped from his own works.(3)

化石カレー

 昼食は、館内にレストランがあるということなので、そこで食べることにしました。さすがに平日の真昼間ですから、お客さんは僕を含めて6人しかいませんでした。ガラス張りの店内には、恩寵のようにやさしい光が南から差し込み、ひっそりとした店内は何か僕一人のために用意された特別な場所のように感じられました。
 メニューを開くと、博物館に因んだユニークな名前の料理がたくさんありました。僕はその中でもとりわけキュンときた「化石カレー」というのを注文しました。「化石カレー」。一体どんなカレーが出てくるんだろう。本当に化石が入っているのかな、なんて馬鹿なことを考えているうちにほどなく「化石カレー」はやってきました。
 しかし出てきたカレーは、僕の淡い期待を跡形もなく吹き飛ばしてしまうくらい普通のカレーでした。気を取り直して食べてみると味は上々でしたが、何か奥歯に物が挟まってしまったような食後感でしたね。う〜ん…。
 お昼を食べた後、博物館敷地内をぶらぶら歩き回っていたのですが、とても広く一日で全部見て回ることはできませんでした。というわけで、僕の博物館探訪記はここまで。だいぶ適当だけどね。長くなるからこの辺でやめておきます。この後は帰路の途中で温泉につかって帰りました。なんかのどかな一日でしたね。自分で言うのもなんですが、気楽なもんです。 
 さあ明日からがんばるぞ!
 

<写真:化石カレー>
どうやら骨付きウィンナーが「化石」らしいです。ちなみにお値段は900円くらいだったかな。味は期待以上でしたよ。あなたに変な期待を寄せない自信があるのならおススメです。 

Nier escaped from his own works.(2)

古代の人骨達

 本館は6つのテーマでそれぞれ独立して展示してあります。順路通りたどっていくと、(1)進化する宇宙(2)地球の生い立ち(3)自然のしくみ(4)生命のしくみ(5)人間と環境(6)茨城県の自然、となっています。
 本館に入り、最初の展示室に向かうところで、まず最初に「松花江マンモス」の化石が僕らを出迎えてくれます。このマンモスは世界最大級らしく、高さが5.3mもあるそうです。動物園の象とは比べものにならないくらい大きいですね。
 そこから少し進むと「進化する宇宙」という題目の展示室があり、まあテーマのとおり宇宙の成り立ちや、歴史などについての展示がなされています。ここで興味深かったのは、重力に関する実験装置が展示されており、真空下での羽とボールの落下実験ができます。物質の質量が違っても重力加速度が変わらないことを証明する実験として、ガリレオピサの斜塔における実験が有名ですが、その実験をここで手軽に見ることができます。
 その他の展示も大変興味深いものりでしたが、全部紹介するとかなり冗長になってしまいそうなので、適当に割愛します。ごめんなさい。
 博物館全体としては来訪者を飽きさせないような、視覚的に強く働きかけるような展示がなされており、見ていて退屈しませんでした。例えば、昆虫達の百倍ジオラマや、実験装置などが多く配置されており、博物館によくありがちな展示しているだけ、とかそういうことはなかったですね。
 僕は比較的急ぎ気味に回ったのですが、それでも全部回るのに二時間ぐらいかかってしまいました。内容、量ともに充実した博物館でなかなか見ごたえがありましたね。
 さて、そんなことを言っているうちにもうお昼です。お腹も減ってきたので、館内レストランで昼食にすることにしましょう。


<写真:「地球の生いたち」にて展示されていた古代人の人骨>
 僕も死んだらここに飾ってもらおうかな。
 
 

Nier escaped from his own works.(1)

菅生沼

 みなさん、こんばんは。僕は年末から今にかけて相変わらず忙しい日々を送り続けているんだけど、今日はいつものようにたがが外れてしまって、しかも最高の天気も重なって、独りドライブに行ってきました。この逃避癖はいつまでたっても直る気配がありません。
 まだまだ外は寒いとはいえ、雲ひとつない青空の中で車を転がしていると、春の到来を予言しているかのようなやわらかな陽光で車内はぽかぽかでした。そんな車内にいると、まるで自分がビニールハウスの野菜になったような気分になります。きっと彼らも僕みたいにホクホク、すくすく育っているのでしょう。
 いつものように適当に車を転がしながら、あてもなく走り続けていたところ、茨城県坂東市に着いたところで、通りがかりに博物館があったので立ち寄ってみました。「ミュージアムパーク 茨城県自然博物館」というところで、そこは菅生沼に隣接しており、博物館の外からはこの菅生沼が一望できました。
 博物館はミュージアムパークというだけあって、広大な土地に博物館本館以外にもいくつかの施設があり、一回の訪問ではは全部回ることはできませんでした。というわけで、今回は本館の紹介をしたいと思います。


<写真:博物館から撮った菅生沼>
大きな沼でしたが、沼の向こうには人家が写っています。ホント人間ってどこにでも住んでしまう生物なんだなぁ。  

あの日、あの時

 今日で阪神大震災から11年。当時僕は、ちょうど阪神地域に住んでいた。幸い僕の住んでいた地域は死傷者がでる程の被害ではなかったものの、結果としてあの大地震は僕の心に爪痕を深く残していったのではないだろうか。僕はあの日のことを、今でもついさっきのことのように思いだせる。
 地震が起こるちょうど5分くらい前のことだけど、いつもならそんなことはないのに、珍しく目が覚めてしまい寒くて布団からでられずにぐずぐずしていた時だ。グラッ!ときたと思った次の瞬間には、地面はすでに激しくうねっていた。当時僕の部屋には、観音開きの洋服ダンスがあったのだが、その扉が衝撃でバタンバタンと開いたり閉じたりしていたのを、僕は布団の中からぼんやりと見ていたのを覚えている。何が起きているのかまったく理解できない。ただただ、僕の目の前には現実から引き剥がされてしまった、いびつな何かが見えているだけだ。
 地震がおさまりテレビのスイッチをつけると、そこには僕の知っている世界とは違う、映画の世界が映し出されていた。高速道路がなぎ倒され、燃えさかっている街の光景には、現実感というものがひどく欠如していた。それは僕の想像の範疇にはない世界だった。僕にはどうしても、テレビの向こうにある世界をうまく自分になじませることができなかった。ただそれは、向こう側の現実でしかなかった。僕にとって、目の前現実として捉えられるのは、食器がズタズタに壊れ、自分の部屋にひびがはいっていることぐらいだった。
 僕らはあの大災害から何を学んだんだろうか。天災と同時に人災とも言われた阪神大震災。それから11年、相変わらず耐震偽造問題などが事件としてでてくる現実。僕らは何も学べなかったのか。あの人災は、物欲こそが幅を利かせる、欲望肯定社会の産物であったということを僕らは忘れてしまったのか。
 今でも僕は不自然に眠りから目覚めてしまうと身構えてしまう。僕のすぐ背後には闇の深淵がひそんでいる。僕はそれを決して忘れない。

猫年

 読者のみなさん、あけましておめでとうございます。とは言えもうすでに正月から10日も経っているのですね。個人的諸事情により、年末から今の時期にかけて時が経つのを忘れるくらい忙しく、気がつけばもう十日です。僕の中では正月がほんとうに存在したかもわからないくらい忙しい日々でした。
 さて本題ですが、去年の年末頃からでしょうか、僕の住んでいる地区一帯の猫たちがすごく騒がしいです。毎日多くの猫たちが、ニャーニャー、ギャーギャーののしりあいながら喧嘩をしているようです。発情期かなとも思いましたが、それにしてはあまりにも多くの猫たちが騒いでいます。
 そこでふと思ったのですが、猫たちは戌年が来ることに腹を立ててるのではないでしょうか。いろんな動物たちの干支があり、街の片隅にひっそりと生きる猫たちの天敵である犬でさえも、自分の種族の冠をかぶった年があるのに、なぜ人間にとってこんなに身近な猫の年がないのかと。
 しかし、年が明けて猫たちもあきらめたのでしょうか。最近はだんだん静かになってきました。去年一年を振り返ってみると、いつになく身の回りが騒がしい年だったように思えます。やれやれ、12年後もまた騒がしい年越しになるのでしょうか。

ニューエイジ(2)

 読者の皆さん、こんばんは。もうすぐ年が明けようとしています。今年の年末は、個人的事情もあり一人っきりで過ごすことになっています。僕の住んでいる辺りは学生が多いせいか、みんな実家に帰ってのんびりしているのでしょう、街が死んでしまったのではないかと思うくらい、ひっそりとしています。
 ブログなんですが、放置してすみません。ごく少数とはいえ、楽しみにしてくださる皆さんには本当に頭が上がりません。最近忙しく、書こう書こうと思いながら、どうも筆(キーボード)が進みませんでした。今日も久々の更新ですが、またしばらく書けないかもしれませんが、どうかご容赦ください。
 では、ここからが前回の続き。
 何故、多くの年長者が年下を受け入れられないのか。僕が個人的にこれだと思っていることを一つここで紹介しようと思う。
 年長者、特に子供を育てた経験のある人々、または現在進行形で育てている人々によく見られる傾向なのではないかとひそかに思っているんだけど、年長者は、若い人々の今ある姿をつくりあげたのは自分自身であることを、痛いほど認識しているからこそ彼らを受け入れられないのではないか。若い人々の粗さや未熟さ、そういったものを受け入れられないのは、それらが年長者たち自身の「作品」だからこそ、だと僕は思っている。となると、次の世代をつくっていくであろう僕たちが考えなければいけないことは、おのずと見えてくるのではないかな。
 ところで僕を含めた若い世代は、しっかりと次の世代のことを、次の世代の目に映る自分たちのことを、真摯に考えなければいけないんだなあ、としみじみと思う。ここを適当にやりすごしてしまうと、今度は自分たちが若い人々に疎まれる存在になってしまうのだろう。
 そんなことを考えながら年を越していくのもわるくないな。うん、来年は今年よりさらにいい年にしていこう。
 皆さまも、良いお年を。

 

ニューエイジ(1)

「最近の若いやつは…」
 ステレオタイプの象徴とも言えるフレーズだけど、今ではすっかり死語になってしまった。それでも社会や人々にとって若い人たちは、とても理解しがたい「宇宙人」のような存在だ。いや、「宇宙人」というよりは、文化的背景の違う「外国人」といったところか。
 どうして年長者は、自分より年下をなかなか受け入れられないのか。あらためて考えてみた。
 そこでまず思いあたったのが、内在するエネルギーの差だ。まあ、これは言うまでもないことかもしれないけど、年寄りと若者じゃその差は歴然だ。もちろん、歳をくっててもバイタリティあふれる人々はたくさんいる。それでも、特にリビドー(性的衝動)においては絶対的な容量が違う。とりわけ思春期と呼ばれる時期には、溢れかえるリビドーと未熟な自分自身との衝突は激しく、未熟な馬乗りが間違えて暴れ馬に乗ってしまったようなチグハグさを感じずにはいられない。特に現代日本の欲望肯定社会では、リビドーによって分裂してしまった肉体と心とを、うまくセルフコントロールしきることは、すごく難しいことだと思う。